インターネットもぐもぐ

インターネット、おなかいっぱい食べましょう




「どうして書くの?」

と題された穂村弘の対談集を読んだ。2001年から2008年まで、いろんな雑誌で行われた対談がまとめて収録されている。高橋源一郎、長島有、中島たいこ、一青窈、竹西寛子、山崎ナオコーラ川上弘美
彼の著作の中でもエッセイはわりと読んできてて、軽妙な感じが好きだし、読者投稿の短歌を評するような連載もやっていて、なんというか現代的な感性に肯定的な人なんだって思ってた。
だからこの本を貫く「近代」への憧れと表現への危機感、今生きて表現していることそれ自体に抱える劣等感とも言えるようなもの、そういうのがこんなに強いんだとは思ってもなかった。

穂村弘:一番知りたいことを最初にいってしまうと、自分たちは近代の人たちに比べて、どんどん劣化して、ただ劣化の一途をたどって、心のレベルでも、表現者としての表現のレベルでも、今はもしかしたら全然だめで、底を打っちゃってるのかもしれないという恐怖みたいなものが一つあって、本当にそうなのか。逆に、いや進化してると主張できるジャンルもあるわけです。でも、短歌なんかは形が同じでもろに比較できちゃうから、そうは全然思えない。

この短歌は形が同じだから過去の作品や歌人とダイレクトに比べちゃう、って話はとてもおもしろいと思った。確かになあ。そうだろうなあ。
現代短歌をパラパラ見るのは楽しいけど、昔のを見るほうが胸を打つ。なんだろうねこれは。強度が全然違う。ものを書くという行為が今よりも重かったのかなぁと感じる(でもわたしはそれを必ずしもよいこととは考えない)。与謝野晶子斎藤茂吉北原白秋の短歌はきっと50年後も読まれるだろうけど、今わたしが読んだり現代歌人の歌集はどうだろう、とは思う。評価がすでに確立してるからというのもあるし、同じ時代に生きてる人に撃ちこむことと時代を超える力は必ずしも同義ではないだろうなっていうそういう意味だ。パソコンのOSだってケータイキャリアのシェアだって数年でぐるっと変わるんだから「当たり前の感覚」なんてそんなものだよね、今。

高橋源一郎:彼女(吉本ばなな)以降新しく出てくる作家の基本的なスタイルが垂直の選択から水平の選択になったというイメージが僕にはあります。水平に、ジャンル横断的に、あるいは任意に自分の好きなものをとってくるということ。それは結局、浮遊しているイメージをとってくることと同じになったんですね。イメージには歴史性がない。たまたまそこにあるというだけなのです。(略)
つまり、何かがあって、その影響や否定で出てくるのではなくて、偶発的に出てくる。何かそういう世界に入ってしまった。僕は多分それが近代以降ということだと思うんです。

穂村:でも平和じゃない世界に生きた人とかには、そんな自意識の次元は問題にならないというか、譲らないで書ける可能性があるけど、僕らはしょせん平和な世界の中の枠組みでの話だから……。
川上弘美:それは私も含めて戦後十年以上してから生まれたような人たちはみんなそうじゃない。
穂村:それって怖いことだよね。選べないわけだしさ、そんなの。かといって選んでいいって言われても、すごく過酷な世界には生まれたくないし。
川上:うん、私たちは、書くことがないということから始まっているわけですよね。

正直言って、結構もやもやする本だった。ある年齢より上の人だったら物心ついてから近代のしっぽが視界の隅を通ったのかもしれない。多少のリアリティがあるのだろう、想像力も働くだろう、そこまで断絶はないように聞こえる。
けど、例えばわたしは平成元年生まれですが「近代」なんて言葉をどう捉えたらいいかマジでまったくわからない。高校の現代文の便覧の上で見た単語だ。この本では何度も「戦後」って言葉が出てきて、この言葉は便宜上永遠に使えて便利だなと思った。終わりのはじまりはもう終わらない。とはいえ、「戦後を生きてる」って実感すらぶっちゃけないわけだ。歴史の断絶は嘆かわしい、と言われても、だったらどうしたらいいんだ、と思わざるを得なかった。


インターネットは危ないよね、という話で。

穂村:お風呂に水を溜めていて膝までしかないのに待ちきれずに入ってしまう感じかな。昔ながらの根性とかシステムをそのまま肯定するつもりではないのですが、安易に表現できてしまうことの危険性はあると思います。(略)
いま時代全体の趨勢(すうせい)として、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」ですよね。読者は驚異よりも共感に圧倒的に流れる。

穂村:本来純粋な言語表現はないから、自分の中にある言葉自体がきれいだったことなんか一度もないんだけれども、でも普通に町を歩いている時に見たり聞いたりする言葉というのは、自分が望むのとはすごく違うわけ。あまりにコミュニケーションに寄り添った言葉に満ちていて、それが自分を傷つけているような感じがする。それに対する反作用としての言語表現という感じがあるから。外の世界自体がなくなったら書かないかな。

高橋源一郎:穂村さんが指摘されたように、短歌は現在、極端にフラットなところまでいってしまっている。(略)過去の歴史は振り返らない、今ここにいる世界が全てで、その中で生きている自分のことを自信を持って書く。日本がどうだったとか、先行する作家が誰だということはもうそんなの関係ねえ(笑)という割り切り方を強く支援をしたいと思いつつ、でも、電話だったらケータイより固定電話だよなとも思う。つまりケータイを前にしたときの気持ちと固定電話の前では気分の振幅が違う。不安も期待も絶対値が大きいわけですよ。

最後の発言は2008年のもので、2008年に黒電話とか言われても…と結構当惑した。対談だから端折られているのかもしれないけれど、それにしてもこのぐっとこなさがすごい。

穂村弘さんは自分が目にする現代短歌のセンスの"感情の濃度"の薄さについて、収録された数人との対談の中で何度も言及しているけれど、同時に"瑞々しい感性"として短歌評の本では褒めているし感心しているのでその二面性もおもしろいと思った。別に、仕事だから仕方なくプラスの言葉を編んでるわけではなくて、どっちも本心なんだろうなって思う。今自分たちがちゃんと温度のある言葉を吐き出そうとするとこうなってしまうことは重々承知で、それでもこれは本当に強度ある言葉なのか確信が持てない、みたいな。とはいえ随分前の対談、最初のなんてもう10年以上も前だからインターネットなんて単語が出てくるだけで、おおお、ってなった。今どう考えてるか聞いてみたくなった。


この本から離れてもう少し一般的なものを指して言うけど、個人的には、インターネットで言葉が軽くなって感情との距離が離れてる、薄まってる感じがする、っていう物言いに全然同意できなくて、むしろ今こそ言葉と感情は近すぎるよねと思う。密度や熟考は確かに足りないかも、でも、スピードとノードの多さが持つ面白さはまた違うモノサシでしょ。
偉い人でも文豪でも貴族でもない普通の人のなんでもない日常と他人から見たらくだらない感情の揺らぎがテキストになって無限に落ちてるなんてスーパーおもしろくてドキドキするじゃん、めちゃくちゃ豊かな環境じゃん、今の時代に生まれて本当によかった、とわたしは思っているけど。インターネットすばらしい、なかったらどんなに人生が暗かったことか、こんな文章はどこに書散らせばいいんだ、と切実に胸に迫るけど。ここがわたしの血が滲むようなリアルだけど。
「お風呂に水を溜めていて膝までしかないのに待ちきれずに入ってしまう感じ」だったとしても別にこのあとプールに入ってもいいんだからそんなに気にしてないんだ。書くことは手癖みたいなもので決意や情念は必ずしも伴っていないから。
それでも、危機感についてわからなくはない。近代にくくられる人たちの短歌にハッとすること多い。でもそれは今わたしが生きてる世界と少し距離があるからこそ、の気もする。
文化の発展は線形な部分もあるし、非線形なことも突然変異も不思議な融合もあるよねえきっと。わたしが今まったく理解できないと思ってることが何十年かしたらメインカルチャーとして取り上げられるのかもしれない。基本的にはおもしろがっていられるものはできるだけおもしろがっていた方が幸せになれそうな気がしてる。

この本と「南極点のピアピア動画」をたまたま並行して読んだけど自分の中で対になってすごくおもしろかった。ネットが表現を侵食するのではと憂うか、ネットで現実をハックしていくと萌えるか。「ピアピア動画」の感想はまた改めて書きたいところ。Kindleでも読める

どうして書くの?―穂村弘対談集

どうして書くの?―穂村弘対談集

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)