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やっぱり愛と呪いは紙一重なんだと思う (「おおかみこどもの雨と雪」を観た)

おおかみこどもの雨と雪」を観た。
すごいものを見てしまった、と思った。感動とは違う。よかった!!と手放しで言える感じでもない。正直、ぐったりした。幸福と絶望を同時に目の前に突きつけられてくらくらした。

何をどう書くか迷って2週間経った。うまく伝えられる自信がないし、なんて感情的な私情なんだろうって思われそうな気もする。でもこの映画のすごいところは、観た人がみんな何らかの私情に基づいて口を開かざるを得ないところだと思うし、そういう方向の創作物としての強度を持ってるし、いろんな人が喧々諤々してるのを見ていて楽しいし、やっぱりもやもやを吐き出したいので自分のために書く。


おおかみこどもの雨と雪。もうタイトルだけで正直だいたい予想つく。「なんらかの事情があって狼の血がはいってる子どもが2人いて、それが雨と雪って名前なんだなあ。まぁ名前はきっと生まれた日の天気からとってるんだろう。100%人間ではない子たちが成長していくあいだに葛藤とかなんやらある話でしょ」くらいまでわかる。予告編まで見たらもっとわかる。“おおかみこども”は姉と弟で構成されているようだ。お母さんもわりとフォーカスされるみたいだ。ここまで見る前にわからせてしまって、その通りすすんで、どんでん返しも大きくはない。

そこまでわかってて、ばかみたいに泣いてしまった。何度も泣いた。どこが一番泣けたかよく覚えてない。
郊外のだだっ広いシネコンのレイトショーで、ガラガラなのに冷房のききが微妙にゆるい映画館の真ん中で、ポップコーンをかじりながらぼそぼそと話すカップルの前の列で、何度も息を飲んで、目を見開いて、手をぎゅっとにぎって、それから泣いた。周りに人が少なくてよかったと思った。終わったあと、放心状態というか動転してたというか、なんだか息が上がってた。足元がふらついて、言いたいことはたくさんあるんだけどうまく言葉にならなかった。見てよかった、と思った。細田守の代表作としてこれから語られるのは、時かけよりもサマーウォーズよりもこれであってほしいなぁと思った。同時に、全然響かない人がいるのもとてもよくわかる。から、軽々しくすすめられない。どんな話なの?と聞かれて超無難な答えしかできない…。

何にぐっときたんだろう。花にも、雪にも、雨にも、ただ美しいだけの(褒めている)自然の描写にも泣いた、気がする。感情移入じゃなくて、感情転移、だった。自分に重ねてしまう。それはわたしの家族構成や育ち方や現在の年齢や性別、全部ひっくるめてなので一般化できないのだけど。そういう映画だった。この映画について話すことは自分がどういうふうに世界を見ているかを話すことになる(ので、恥ずかしい)。

とにかくわたしはつらくて。つらかった。思ったよりずっとつらかった。
あんなに美しい映像をこれでもかと魅せつけられたのに全然癒されなかった。ストーリー運びに泣かされたわけじゃない。突っ込みたいところ、破綻してたところ、ちょwそれはwwと笑い飛ばしたくなるところはたくさんあった。そんなのいろんなところで言及されてるから繰り返さない。もっとえぐい部分でつらかった。だからこそ輝くシーンがあまりにきれいに脳裏に焼き付いたのも本当。

あの映画の中で、若さは圧倒的に不利に見えた。
田舎ってあったかいね!いいね☆みたいなことより、あるいはこんなに簡単に受け入れられるわけないだろ、理想主義すぎるだろ、という見方より、そこに行き着くまでの冷たさ、どうしようもなさ、未知の経験すぎてただ途方に暮れる薄暗さ、の方がずっと強く印象に残った。どうしたらいいかわからない、を日々突きつけられる。あそこまで親族も友人も登場しないことは現実ではないだろうけど、そのどうしようもなさの質は変わらない。若いのにお子さんが2人もいて大変ね。劇中にはないけどきっとそんな言葉もかけられたよね。それは労いの言葉に見えて本人の精神状態によってはすごい刃だろうなと思う。それはおおかみこどもじゃなくたって、別に子育てじゃなくたって、普遍的だよな、と。

例えば雨と雪を感情的に叱りつけたり、怒ったり、ときには手を挙げたり、したこともあったでしょう。寝ている2人を見ながらあんなに怒鳴らなきゃよかった、ああやってやらせてあげればよかった、なんでわたし叩いてしまったんだろう、そんな風に泣いた夜が何回もあったと思う。そういう描かれていない部分を思って苦しくなった。完璧なはずない。お母さんは大変だ。幸か不幸か子どもにとってお母さんは1人しかいない。この設定だと秘密があることでその病的なまでの結びつきがさらに強固に見える。

子育ては楽しいと言いたかった、僕の憧れを、Amazonでクリックして買えないものを表現したかった、と細田監督はインタビューで答えてた。でもわたし怖くなった。あんなふうに誰かと恋愛をして(しかも偶然かつ運命の必要条件のように描かれる)子どもを産んで育てるところまで、サイコロをちゃんと振ってコマをすすめることができるのか。花はスーパーマッチョすぎる、“過剰”すぎる、そういう意見も見たけど、母という職業は過剰性を排して考えても大変だよなー…。子どもがおおかみとの混血じゃなくたって、自給自足的農作業がなくたって、食事や洗濯をしながらいたずらや泣きわめいたり暴れたりするのをなだめるだけで…!それでも元気に生きてる、それだけで吹っ飛ぶんだろうなとも強く思わせられた。幸福の部分。


「わたしまだ、あなたに何もしてあげられてない」
花が雨に最後にぶつけた言葉は、愛と同時に呪いだと思ってくらっときた。あそこで雨が振り切ってくれて救われた。危ない。紙一重だ。母親という存在は程度こそあれそういうものだと思う。子どもを縛る。そんな気がなくても。「大丈夫して」「もう1回して」、泣きながら丸まって甘い声でせがんだ小さな男の子の存在が、彼女の中にはずっといて、守ってあげなきゃと思っていて、でも子どもの成長はもっとずっと速いんだ。もはや幻想になってしまった自分の子どもへの認識を、消して書き換えないと呪いは消えない。今目の前にいる彼と彼女の頭の中にいるこの子は別物だった。でもその出発点は愛だって、わかってる。だから無碍にできない。彼はそれでもそっちを選んだ。選べた。選べてよかった。

雨は山に消えて、雪は中学で寮に入った。花はあの家に残された。1人で。広い家に。
最後の花が一瞬、亡霊みたいに見えてちょっとぞっとした。雪よりも雨よりも、花の残りの人生がずっと長く思えた。ラストでおおかみおとこの夢を見ながら「あなた、わたし、ちゃんと育てたよ、だからもう…いいよね?」とか言って死んでしまってもおかしくないんじゃないかって感じだった。これはわたしの未来かもしれない。全身全霊をかけて子どもを育てた女の人が行き着く先かもしれない。
でも花は手を離すことをちゃんと選べた。雪をあの家に幽閉しなかった。雪は絶対に、自分から寮に入ることを強く望んで母を説き伏せたわけではないと思う。雨もわたしもいなくなるなんてお母さんさみしいじゃん、と気遣ったと思う。雪は、しっかりしたお姉ちゃん、だから。それでも花は、あなたも外に出なさい、と言ったんだと思う。「絶対人前でおおかみになっちゃだめよ」なんてもう言わない。だって花の手の中にはもういない。おおかみおとこだって、彼女の前で秘密を見せた。娘だってもう自分で選べる。守ってあげなきゃ、はいつか自分でマインド・リセットしなきゃいけない。


雨と雪に子どもだった自分を重ねて、花に現在と未来の自分を、そして、自分の母の過去を重ねた。幸福と絶望が一気に襲ってきて頭がぐちゃぐちゃになった。一着のワンピースは、自分を諌めるためのおまじないは、なぐさめてくれる口癖は、人生を救うんだ。何度も頭の中で反芻することで。それは呪いと紙一重なんだけど。誰かが自分のことを考えてくれている、その確信は人生を確実に縛る。縛るけど。救うよね。そう思わなきゃやっていけない。いつか自分が、そういうものを誰かに与える時も恐れちゃだめなんだな。

花にも新しいおまじないが、「大きくなるまで、見守ってやろう」の先が、見つかりますように。折れて砕けませんように。
呪いを愛に変換する白魔術を、成長する(あるいは長く一緒にいる)過程で学ぶべきで、それを会得するために信じてあげないとだめだよねえ。過保護じゃだめだよねー。砕けちゃうほどそんな弱くないよなー。自分で選んでるんだもんなー、誰でも。流されてるように見えたとしても。


だいじょうぶだいじょうぶ。おみやげみっつ、たこみっつ。

 

SWITCH Vol.30 No.8 ◆ 細田守『おおかみこどもの雨と雪』はこの世界を祝福する

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