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自己表現のまえに

英語の勉強をしているといつも思い出す話がある。
小学生か中学生の頃に読んだんだけど本の名前を思い出せない。


父親の転勤で家族でアメリカに移住することになった男の子の話で、彼はいくつか歳上のお姉ちゃんがいる。
明るくて活発で頭のいい自慢のお姉ちゃんだった。あんまりぱっとしなかった自分に比べて親や先生にもかわいがられてて、でも自分にも優しくしてくれる。
アメリカにいって現地の学校に通うことになる。自分は小学校。お姉ちゃんは中学校。
徐々に学校に慣れて友達もできて放課後にあそびにでかけるようになったけど、お姉ちゃんはそんなそぶりがない。
家にいるとき、家族に対しては日本と変わらずによくしゃべる。どうしたのかな。


ある日お母さんが学校に面談かなにかで行ったときに「彼女はおとなしすぎるし自己主張がなくて」と言われたという。
お母さんも自分もびっくりだ。だって自分たちが知ってる「お姉ちゃん」とは全然違う。
「いつも僕たちに話しているように話せばいいのに、なんで?」と尋ねる。彼女はしばらく黙って口を開く。


「あなた、『君はアメリカが好き?』って聞かれたら、なんて答える?」
「好きだって言うよ」
「じゃあ嫌いなところはないの?」
「そりゃあるよ、お菓子がまずいとか」
「でも好きなんだよね?」
「好きだよ、日本が嫌いなわけじゃないけど」
「わたしは『こういうところは好きだけどこういうところは好きじゃない』って、言いたいの。できるだけ正確に。でも言葉が出てこない。
 シンプルな受け答えだとできるんだけど、なんだかそうしちゃうと、今までのわたしとちょっと違うから、うまく切り替えられないの。
 日本語で聞かれたらそう答えるであろうことをできれば全部英語にしたいの。もっと削ればいいのはわかってるんだけど。
 学校だと特にできなくて。わたしにとって学校はそういうきっちりとしたものを求められてきた場所だったから」


言葉に出すことは必ずしも100%自己表現のためだけじゃない。
会話が続く、時間が埋まる、お互いに目を見ている、向かい合っている、その過程と時間自体に意味があることってたくさんある。
くっだらない会話、中身のない会話でも、必ずしも意味がないわけではない。
何かを学ぶというのは、言語に限らず、そういうことなんだと思う。リズムを身につけること。
中身のないもの(あるいはなさそうなもの)に付随する意味はなにかを考えること。
大事なとこだけつまみぐいしようとしてもひとりよがりで、もっとぐちゃぐちゃした無駄そうなものがないといけないんだよね。
正確に一個ずつ完璧に理解していくより、不完全でも単純でも不明確でも誰かとやりとりしたりするなかで周りから学んでくことってあるんだよね。
アメリカは好きだけどファストフードばっかりでうんざりするわ、を伝えるのも大事だけど、好き好き!でも日本も好き!っていう簡略化して単純なものを伝えたって、自分が浅く見られるわけじゃないんだぞって。