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インターネット、おなかいっぱい食べましょう




熱狂の渦を覗きこむ

毎月1つ、何か新しいことを学ぼうと決めて3ヶ月経った。マジで毎日楽しすぎて時間が足りない。
こう書くとまじめに聞こえるけど、もっとド真ん中ミーハーな興味だけで決めてるので、普通にまぬけに見えると思う。そんなに手広げてどうすんのって感じに。でも「今までなんとなく身近で見ていたしぼんやりとはわかるけどよく知らないこと」について一歩踏み込んでもう少し内側に入り込むの、すごい楽しい。正直言って20年も生きてれば趣味なんてそこそこ安定なわけで、そこであえて全然わからないことばっかりのところに"新規"ですって宣言して入門するの、超わくわくする。久しぶりかもしれない。


12月はジャニーズ、1月は宝塚、2月は商業BLについて教えてもらった。
ヲタクの友達を捕まえて話してもらったり、概形をつかむのに役に立ちそうな本や雑誌を読んだり、テレビやDVDやなんかを見たり、実際にコンサートや舞台に行ったりした*1。1ヶ月かけていろいろわかるようになってくると、そのあとも継続して追いかけたくなるに決まってるので結局時間とお金を費やす対象が増えているだけだ。困る。困るよ。いや幸せだけど。生きる気力が出る。

たくさんの人が並んでるステージを見て最初は全然見分けがつかなかったりジャンルの中で同じように見えてたりしても、具体的なものをいくつも見ていくと認識の網の目が細かくなっていく。個人の名前と顔が一致する、キャラクタや作風がわかる、グループや組やレーベルの色がわかってくる、ファンのみなさんが使う専門用語が耳に馴染んでくる。気付いたこととかわたしはこのへんが好き!というのをTwitterに垂れ流したり"師匠"に伝えたりするとまた違う角度からおすすめされたりする。にわか乙wなんて言われること全然なくてほとんどの場合優しい。インターネット最高だ。


オセロみたいに"知らない"が"知ってる"に裏返っていって、それが少しずつつながって絵を描けるようになって、それでもフィールドはいくらでも広がって、時たまうまく挟めると一気に斜めに色が変わったりして、もうそういうのがすごくおもしろい。知らない、わからない、って日常ではマイナスの意味で使う方が多いかもしれないけど、全然恥ずかしくない。だって当然だもんね、もっと知りたくて興味持ってるわけで。最初からそういうマインドセットで向き合えるの気が楽だし、ただわくわくしかない。同じ対象を愛でてても聞く人によってねー、全然違うんだよね、見てる目線も場所も。だから新しい発見が、えーそれもっと詳しく教えて、ってことがいくらでも出てくる。

自分が好きなものを増やしたいっていうのもあるけど、なんらかの対象に早口で愛をまくしたてる人自体が好きなんだと思う。側にいるだけでにこにこしちゃう。その対象のことを自分が全然知らなくても、おもしろく聞ける。もっとそういうの浴びたい。誰にも迷惑かけない偏愛を浴びたい。わたしの普段見ている視野角なんて世界の一部だもんね。どうやったら外側を見られるんだ。見たい、聞きたい、話せるようになりたい。


そんなようなことを人に話してたら、あー「信仰の現場」じゃん、と言われてナンシー関の本を渡されて読んだ。めっちゃおもしろいじゃないですかなにこれ。1989年生まれのわたしは、2002年に亡くなったナンシー関の文筆物をリアルタイムで読んだことがまったくなかった。この1冊を読んだことと、最近調べものをしていると彼女の名前に必ずぶちあたっていたことを契機に近ごろ著作を読みあさっている。

信仰の現場―すっとこどっこいにヨロシク (角川文庫)

信仰の現場―すっとこどっこいにヨロシク (角川文庫)

「何かを盲目的に信じている人にはスキがある」って言葉からはじまるこの本は、いろんな「信仰の現場」を紹介するルポルタージュをまとめたもの。矢沢永吉のコンサート(しかも地方の方がアツそうだって理由で東京ではなく長野まで向かう)、親子連れが通う日曜日の児童劇団、宝くじの抽選会、ドッグショー、発明学会。世の中にはそういう空間もあるよね名前は聞いたことあるけど、ってところに足を運んで、熱情の源を分析したり、中の人からしたら普通なのかもしれないけど、って違和感を外からザクザク掘り出してく。

全員が同じスキを持っているという安心感が、彼らを無防備にさせる。日常生活では意識的に保とうとしなければ「傾いている」と世間から非難される彼らのバランスも、その場ではその「傾いたまま」の状態で「正」であるという解放感。肩の荷をおろしたように無防備に解放されるのである。


一番おもしろかったのは、数年に一度来日するウィーン少年合唱団の追っかけをしてるおばさま方の話だ。いろいろスケールが違う。ファンとしてのゴールは、合唱団のお気に入り少年とペンパル(文通相手!)になって、声変わりで合唱団をやめたあとも家族ぐるみの(!?)付き合いを続けてウィーンで邂逅すること、なんだってよ。すごすぎるわ。なんてドラマティックなんだろう、その証言だけで。背後に広がる熱量。

ナンシー関は完全に外部者として観察して綴ってるけど、わたしはもう少し内側を見たいと思って、今も新しく叩く熱狂の扉を探してる。外から見た時に気付くエピソードもだけど、実際リアルタイムで「ハマってく」自分を実験台にして変化を覚えておきたい。繰り返し場数を踏むと同じようなものを見ていても、注目する場所もときめくポイントもどんどん変わる。なんていうんだろう、自分の中の感覚器官がアップデートされてく感じすらする。っていうか楽しいんだもん。少しでもわかってくるともっと楽しく見れる。際限がないねえ。


3月は短歌のことを勉強しようと決めた。この前会った女の子が短歌をやってると話していたからそうしよう。ちょっと今までと毛色が違うけど、判断基準は「へーそういうの興味ある、おもしろそう」の先に進む、ってことだからいいのだ。おもしろそう、って言ってしまうのは簡単だけど実際は足を踏み出さないことがほとんどだよね。でも少しかじると新しいものいろいろ見えるってわかったので、にわかでもいいから門をくぐりますよ。
まだまだ知らない世界いっぱいある、世の中楽しいこといっぱいある。もっとギリギリ火傷寸前まで、髪の毛の先が焦げるくらいまで、いろんな熱狂の渦を近くで覗き込みたい。中毒みたいだ。もっと聞かせて、あなたの「傾いたまま」の言葉を。

*1:このへんの具体的な入門過程は別途書きたいところです