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「コクリコ坂から」、彼女はどこへ。

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「コクリコ坂から」、見てきました。友達と3人で。
わたしジブリってあんまり興味なくてこの映画のテイストで言えばたぶん先行してるのは「耳をすませば」なんだと思うけど見たことない。
トトロと魔女の宅急便はちっちゃいとき何回も見たからわかるけど、もののけ姫千と千尋の神隠しもうろ覚えもいいところだし、ハウルもポニョもアリエッティも一度も見てないんですけど、それでも「コクリコ坂から」は予告の映像とかキービジュアルのポスタを見て、これは見たいなと一番強く思った。
なので、ジブリで自発的に見たいなと思った映画は超久しぶりです。たぶん。そのうえで感想を書きます。


ぶっちゃけ面白かったかと言われるとよくわからないしオススメします!と言えるほどの衝動は今のところないです、でもじわじわきそう。
きれいなシーンがいくつかあった。こういう風に色を重ねるんだなあ、と思うような。いろいろなところでこの先、思い出す気がします。


見る人の年齢と性別でかなりぐっとくるものと深さが違うだろうなと思った。なんとなくネット上では評価高い気がするけどそれはわたしより年上の人のほうが多いからかな、とぼんやりと。年齢を積むと確実に、ディティールを見て何かを想起する体験が多くなるよね。「子ども向けアニメ」ではぜんぜんない。小学生が見ても絶対におもしろくない。
一箇所、あるシーンでものすごくぐっときて(どこかは言わない)それは実際にわたしがああいう恋愛をしたとかではなくて、ああこの空気感、知ってる、っていう感じだった。ひとと少しずつ仲良くなっていく過程とか、誰かに理解されてる実感とか、不安をぶつけてしまう瞬間とか、もっとマクロな感情の話。


あとね、とにかくモノローグがないのです。誰かが中心にならない。見かけ上もちろん中心の女の子はいるけど、彼女ですら第三者的に観察するしかない。
感情移入よりも観察のフェーズがメインで、それを楽しめるか。そこに没入できるかが分かれ目な気がした。
映画館の座席から彼らを眺めているだけだ、誰のことも結局「よくわからないけどわかるところもある」で終わる。映画をひっぱっていく魅力的なキャラクタ、という感じがない。ときめくとしてもディティールだなって、わたしは思った。


なんだか女の子がスイーツというかDQNというか…だったね、ああそうだね、確かにね、と一緒に言った子たちが話していてちょっとよく意味がわからなかったんだけど、たぶん戦士的ではなくて男女関係の女の位置にちゃんと収まっていたという意味なのかな。ジブリの描く女の子は戦うし抵抗するから?
海ちゃんの心の声をわたしたちは聞かせてもらえなくて、彼女の戦いは表面には出てこない。
ふつうに生きてるふつうの女の子の日々の我慢や悩み、って程度が低いわけじゃないし、本人にとっては世界を揺るがす大問題だ。
宮崎吾朗さんはすごいなあ。立場的にも世代的にも時代的にも、憧れやファンタジーでは物語がもはや紡げないと思っていて、それでこう昇華するんだな。


アニメの芸術性というのは「意図しかない」ところだよな、って、押井守スカイ・クロラを見た時もまったく同じように感じたのだけど。
人が演じるのであれば、その人に任せられる部分があって、そこがキモになるわけでしょう。台本にト書きが成立する。「息をのむ」とだけ指示できる。
アニメはすべて作り手が決める。もちろん声優はいるけれど、それはビジュアルがあるうえの役目だもの。
目の動き、言葉の詰まり方、こぶしの握り方の強さ、振り向く角度、顔をあげるタイミング、ものを書くときの手の添え方、本のページのめくり方、そういう、いろんな仕草。
その質感や挙動を眺めることにフェチズムを感じられるかどうか、が重要な映画だなと思ったよ。


NHKで宮崎駿宮崎吾朗のドキュメンタリを見て、このへんについていろいろ腑に落ちた。
のですけど、ちょっとこれ以上続けると長くなりすぎるので改めて。