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「お客様は神様」だった。 [ヤン・リーピンのクラナゾ@Bunkamura]

art

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4月10日、「ヤン・リーピンのクラナゾ」を千秋楽で見てきました。

「蔵」とは、中国語でチベットのこと。「クラナゾ(蔵謎)」と題した本作は、チベットに生きる少数民族の多彩な文化や生活、宗教儀式を歌舞で謳い上げた、舞踊スペクタクル。物語はあるチベット族の老女が巡礼に出るところから始まり、その旅路で出合うチベット族の風習、音楽、踊りを、総勢約80名の九寨溝藏謎劇団の躍動感と生命力に溢れたパフォーマンスがつづる。

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クラナゾ スペシャルサイト


もともとチベット仏教やその文化にはとても興味があって、2010年2月にモンゴルに行ったときもお寺を廻ったり仏教美術の美術館に行ったりしたこと楽しかった。モンゴルはチベット仏教の国なのですね、もちろん本家チベットとは違う部分もあるのだけど。ちょうど行った時期が旧正月の時期で、どのお寺に行っても民族衣装着た人がたくさんいて(みなさんの思う「遊牧民ぽい服」、都会でもふつうに見ます)まるで歌のような読経が聞こえて、たかれたお香?からけむりがもくもくしていて、どきどきしました。
色の使い方が美しいです。そして思い切りがいい。でも優しい色。アジアの美術と西欧の美術を見ていて決定的に違うのは「茶色と金の使い方」だなあって思う。このことはちゃんと書くと長くなるから割愛。


で、まあ、ヤン・リーピンですよ。2010年にBunkamuraで「シャングリラ」を上演してて、これも行きたかったけど行けなかったの。ものすごい踊りをするひとなんだ。すごいとしか言えない。そんな彼女がチベットを題材に!なんて!どんなものになるのかしら。


ええと。圧倒された。エネルギーに。


上演中ずっと「お客様は神様です」という言葉が頭をよぎっていた。
「お客様はわたしたち“ではない”」という意味で。
なんだかもっと大きな存在、歴史あるなにか捧げている歌と舞のように見えた。神様に向けて。祈りの代わりに。このホールなんて飛び越えて、うまくやろうとか間違えずに踊ろう、とかいう小さな次元で考えてないように思った。もっとえぐい感じ。むせそうな感じ。恍惚としていて熱っぽくて、たまに目を逸らしたくなってしまう感じ。「神のご加護がありますように」。

制作にあたって、彼女がこだわったのはチベット族の伝統を、歪曲することなく伝えること。舞台に登場する歌い手や踊り手は、全員チベット族だ。
「彼らは遊牧民で、テントを家にしていて、しょっちゅう移動しています。ダンサー、演奏者を集めるために『○○に歌の上手い人がいるよ』と聞けば、何日もかけて会いに行きました。人づてに、90人余りのキャストを集めることができました。キャストのほとんどは14〜20歳ぐらいまでの若者たちです」


彼らにとって踊ったり歌ったり弾いたりすることはなんなのだろう、と思った。有名な先生のバレエ団に入って日々研鑽を積んで勝ち残ったひとにぎりの人間として舞台に立つわけじゃない。ダンサーとしてのエリート教育を受けてきてない(ヤン・リーピン自身もそうだけど)。これで食べていくイメージは、きっと今もないだろう。もっと生活に密着したもの、息をするように日々享受してきた表現なんだろうなって思う。それを人は「文化」というのでしょうか。そしてそれをパッケージにして売りものにすることに対して、どんな思いでいるんだろうね。楽しんでいればいいな。もしくは、今までのお祭とか礼拝とか、大事な思い出を思い出しながら誇りを持って立っていてくれればいい。


宗教を描いた作品、といえばその通りだけど、もっと土地に対する執着みたいなものを感じた。「だってここに生まれちゃったから」が「わたしたちの文化」を共有する存在にお互いなりうるって、すごいことだ。ポタラ宮は行って、見てみたい。あんな不便な場所に、いきなり表れる天国にいちばん近い場所。「ポタラ宮の修繕作業をボランティアとして手伝えることはとても名誉なこと」って描写が出てきて、そうやってみんなのものにしていくんだって思った。天国の描写のシーンがおそろしかった。ふつうにこわかった。舞台の上に存在してるはずの世界が徐々にこっち側に侵食してきている感じがした。境があいまいになっていく感覚。これが宗教ですね。熱情と想像力。


そして、ヤン・リーピン、すごすぎた。
圧倒的だ。踊りも佇まいも。いるだけで。空気が変わった。息が止まった。
カーテンコールで袖から出てきたとき、あまりにも美しくて、ただもうそれだけで泣いた。神々しさすら感じた。


ターラ菩薩の役、がまったく過剰じゃない。同じ人間という種族だってことすら信じがたいレベル。いやいや言いすぎだろ、いくらなんでも、と思うだろうけど、まじですごかったよ。関節がすごくやわらかくて。体が曲がるの。軋みなく重力を受ける。本編とは別に最後にソロの短時間の舞踏があったのだけど、それが一番感動した。最後のほんの何分とかよ。どれくらいの時間だったのかな。



わたしがヤン・リーピンの動画を見た最初はこれなので、5分時間ある方は、ぜひ見てください。
開始30秒で、人間の手が鳥になって羽ばたくよ。意味がわからないだろうけどそうとしか言えない。


見ていてなぜか泣いてしまうのって、ダンスと競泳と陸上競技なんだけど、どれも人間の体の美しさに惚れ惚れする。自分の体を競技に対してチューニングしていくこと、頭でイメージした通りに淀みなく動かせるように近づけていくこと、エネルギーを一瞬にこめること、そのすべてに途方もない時間と精神をかけてきたんだなあって思って、やられる。
彼女は技術はもちろんだけど(詳しいわけではないからよく知らない)、頭で描いたものと現実で舞台で動いているものの差異がものすごく小さいような気がした。だから神様みたい。身体的な制約がないみたい。ないわけないんだけど。埋めるための努力の積み重ねなのだろうけど。


勅使川原三郎の舞台を見た時も思ったけど、目を奪われてしまう・空気が変わってしまう踊りって、呪術的なエネルギーがあるんだよね。呪われてるみたい。魔法というより呪いに近い。古代のさまざまな宗教が踊り子の存在と不可分だったことはとてもよくわかる。自分は席から少しも動いてないはずなのに、くらくらしてぐったりしちゃう。生気は与えられてるけどある意味奪われる。信仰のはじまりはこういうことなのかもしれないね。


ああ、すごかった。また彼女の踊るのを見たい。夢に出てきそうな舞台。