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インターネットもぐもぐ

インターネット、おなかいっぱい食べましょう




あの日、東京で。

2001年9月11日、わたしは12歳だった。
映画みたいだ、と思いながら遠くで高いビルが崩れるのをテレビで眺めた。
飛行機のプラモデルとレゴのブロックで弟と遊んでるような擬音でしか認識できなかった。ひゅー、どかーん。なんだこれは。何が起きてるの。
詳しいことはわかっていません、というアナウンサーの声を聞きながら歯を磨いた。
朝起きたら世界は少し変わってるんだろう、今日のことはきっと歴史の教科書に載るのだろう、と思って眠りについた。
戦争が起きた。


2011年3月11日、わたしは21歳だった。
「あれ、揺れてる」「うん地震だねー、すぐおさまるでしょう」「…たぶんかなり揺れてるけど」
「これまずいって…」「とりあえず外でたほうがいいよ」「え、そんなに?」
ビルを駆け下りて、渋谷道玄坂の路地裏に出た。
たくさんひとがいて驚いた。このおもちゃみたいなビルの集合体からポンプで吐き出されるように出現したひとたち。
こんなにいるのね。ほとんど何も持たずに、ケータイだけ握りしめて。
みんな不安そうに空を仰いでた。何もないのに。爆弾でもテロでもない。飛行機が飛んでいるわけでもない。
ガラスばりのビルがぐらぐらと揺れていて、おお、けっこう大きかったんだ、と思った。
誰も声を出していないのにざわざわしてた。もしくは、それはわたしの錯覚かもしれない。


もう大丈夫かなと思って戻ったら揺れた。すべての荷物を持ってまた外に出た。
少し歩いて開けたところまで行くことにした。246から、松濤方面に抜けていく。
道玄坂のてっぺんの交差点でこんなにひとがいるのは、人の話し声がしてるのははじめてだ。いつもは会話なんてない。
途中で泣いている女の子とすれ違った。路線バスは驚くほど普通に走ってた。歩道を歩いているひとがすごく多かった。
会社ごとに固まって進むひとたち。外から見える場所にテレビがあると人だかりができていた。ワンセグにひとが集まる。
やっぱりiPhoneのひと多いな、と的はずれなことを考える。


血管とそこに流れる血液のようだと思った。東京という巨大な生命体のなかを流れていた。さながら、わたしたちは赤血球でしょうか。
Twitterを見て何があったか把握した。東北で地震。
ケータイのメールはもちろん送れなかった。とりあえずGmailから家族にメールを打った。「揺れたね」。
マグニチュードはどんどん上がっていった。CNNが8.9て出したらしいよ、とアメリカからポストされたものを見て、これは恐ろしいことが、と思った。
そんな数字見たことがない。最終的には9.0に落ち着いたわけだけど。
でも詳しいことはわからなかった。テレビはこの時点でまだちゃんと見てない。
寒かったけど、天気は悪くなかった。東京でこんなに寒かったら北のほうはどれだけ、という思いがよぎった。


東大の駒場キャンパスではこんなときも生協の前でダンスの練習してる人たちがいて、すげーなーって思った。
芝生の広場に、ご近所のおばあちゃんおじいちゃんから保育園のこども、ビジネスマンまで集まっていてその画だけ見たらふれあい行事かなにかみたいだった。
生協であったかい飲み物を買って、外のベンチに座った。
ノートパソコンを取り出して「やばい、15時までに入稿だったんだけど!」「いや相手先もそれどころじゃないんじゃないの」と会話している横で、
今日わたしたちこれからどうしようね、と話していた。バイト中だったから。
とにかくよくわからないからiPhoneに貼り付いてた。
Twitterで文字が(あえて「情報が」とは言わない)流れているのを見るだけでなんだか安心した。この安心を最初に得られたかどうかって相当違っただろうなと思う。


電車も動いていないし、ここにいても寒いし、東大は食堂も教室もどこもかしこも施錠されていて室内で座ることもできないし(あけてくれてもいいのにね)渋谷に戻ることにした。
てくてく歩いた。変な高揚感だった。ひとりじゃなくてよかった。
「平気じゃなーい?」といってビルに留まろうとするわたしをひっぱりだしてくれて(もし直下型の大きな地震が来たらわたし死ぬわ、と思った)話しながら歩いたし、iPhoneの画面の向こうにはひとがいっぱいいた。みんなわーわー言ってる。


帰ることはできそうになかったし、電車が動いても激混みな気配がしたので、渋谷で朝まで過ごすことにした。
コンビニにおにぎりやパンは全然なくて、お菓子を買いにいった。
NHKのUstとニコ生はすごく助かったな…この日だったかどうか覚えていないけど、一番多いときに80万人くらい見ていた気がします。
作業の続きをしようと思ったのだけどあまり集中できなかった。
家族はだいじょうぶだったし、情報を摂取し続けてもしょうがないとも思ったのだけど。でも目を離すわけにいかないというか。


結局、個人の問題としては「電車が止まって帰れない」という一点に収束した。
神奈川は停電をしてたみたいだけど、渋谷はコンビニも営業はしていたし、泊まりこむ人もいた。金曜の夜だった。わりと飲み屋も混んでた。
その夜は近くの韓国料理屋さんでチゲ鍋とサムギョプサルを食べてマッコリを飲んで笑ったりしゃべったりした。
2週間経った今考えるとよく思い出せない感覚だけど、そういうエネルギーすら「不謹慎」と言われてしまいそうな空気がそのあと数日間はあった。


都心から歩いて帰るひとがたくさんいたみたいだ。渋谷を歩く人の群れを見て、大人の「夜のピクニック」みたいだなーと思った。
あの日の東京はなんだか、謎の高揚感と一体感があったんだよ。
わたしたちは目撃者になったし、証言者になった。
直接的な意味の被災者ではないかもしれないけど、それでもこの非日常を共有してた。


お店を無料開放してトイレや飲み物を提供するお店とか、うちに泊まってもいいですよという呼びかけとかが流れてきて、とても興味深かった。
自分の場所と時間を開くひとと、そこに入り込むひとたちの心理を知りたいなあと思った。
どうしてやろうと思ったのか、そこでどんな会話が生まれたのか。
善意はもちろんだけど、参加、に近い気がするんだよね。


あと、東京武道館や横浜アリーナはじめ大学や小学校を開放していたはずなんだけど、地震のあとに会った人たちは意外に知らなかった人も多かった。うちの親とか。
Twitterに貼りついていたら何度も見た情報だったけど、届かない層は確実にいるんだよなって改めて思った。


3.11は共有する記憶になった。肌で知った。歯を磨きながらぼんやりと眺めた9.11と明らかに違う。
今アメリカにいる友達が
「日本にいない人も、自分の知らないところで自分の国が壊れていくような感覚に襲われたと思う 少なくとも俺はそうだった」
と書いていて、すごい表現だ、と思った。この共有感には、自分の立つ場所が実際に揺れたか揺れてないかは関係ない。
一瞬のうちに自分の国が「世界の中心」になった、その感覚は初めてで動揺した。

世界の仕組みってもうとっくに完成してる気がしてた。
大きな戦争のあとに、えらいひとたちががんばって作ってきたんだろうって思ってた。
わたしたちはこの先、そのバランスを崩さないように生きてくんだろうなーって、漠然と考えてた。
平成生まれと9・11のはなし - インターネットもぐもぐ

以前、自分の価値観の形成に9.11は無意識に関わってるんだと思うってことを書いたんだけど、この日のことは間違いなくその上になるだろう。
そして今日本で生きてるひとたち、もしくは海外からハラハラしながら日本を見守ってくれてるひとたちの多くにとってそうでしょう。
このギアが変わった感じを意識的に覚えていたいし、まだ全然言語化できないけどもっとちゃんとわかりたい。
何が変わるのでしょう。変えられるんでしょう。このあと。わたしたち。(わたしたち、って誰?)


気仙沼出身の子と話していたときに彼が言った言葉が印象的だった。
「でも、もし地震や津波がなかったとしても、僕の町はある意味ジリ貧だったんですよ。だから、ゼロからつくることになる環境は、そこから議論をはじめるのは、ちゃんと意味があるんです」。
主語がもっと大きくても同じかもしれないね。
「日本はある意味ジリ貧だったんです」。


まとまらないけど、まだ手触りを覚えているうちに文字にしておく。未来の自分は他人、なのです。
1日も早く“偉大なる平凡”が戻りますように。

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