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「アイドルっぽさ」と個性と構造主義

かわいい女の子がとってもすきです。
かっこいい男の子よりかわいい女の子のほうが、ずっとすきです。

歌って踊っているのも、劇場に行けば会えるのも、握手ができる距離でにこにこしてるのも、テレビの中で話しているのも、グラビアでほほえんでいるのも、間違いなくアイドル“っぽい”。
さて、みんなが思う「アイドル」ってなんだろう?だいすきなひともあまり興味がないひとも、何かしらイメージはあるはず。そしてそれは、同じようで違うと思うのです。
うん、きっとアイドルは正義!(ですよねー?)


AKBの話は最近毎日のようにしているし、もうほぼすべてのメンバーの顔と名前は一致したのだけど、どうしてこんなに気になったんだろう、と思うと、彼女たちはがんばって「アイドルしてる」からだなーって思った。
要するに、部活なんです。活動なのです。うまくいえないけど、一過性の持つ気迫をよく理解しているように思うんです。


例えば、わたしのなかでAKBと箱根駅伝はなんとなく似ている。なんとなくすごくすき。一瞬一瞬に懸けているというのは本当に美しいなーって思う。わたしはがむしゃらになにかに夢中になったことがあまりないから見ていてとてもまぶしいししあわせな気分になる。素直に応援する。自分が毎日過ごしてるのとまったく違うフィールドだし、苦労も心労もぜんぜんわからないけど、わからないからこそ超純粋に応援してる。わたしより年下の子たちが一生懸命歌ったり踊ったりしゃべったり、じゃれあったりしてるのはとてもかわいい。がんばれ〜と思う。共有する目標とか方向があるからこそライバルだし仲間だっていう関係は(実際の人間関係がどうとかではなく)すごくきれいだ。


韓国のアイドルもとてもかわいいと思うんだけど、どうしてもツボにどっきゅんとこないんだよね。それもここな気がする。彼女たちはプロだから。アイドルとしてプロな感じ。上を目指してる。AKBの子たちって、彼女たちひとりひとりが抜けても大きな組織としてはそのままあるだろうし、女優になりたいだとかお笑い芸人になりたいだとか(笑)どのくらい本気かはさておき、少し違うレイヤーと方向性のものをそれぞれ持ってる。来年はもう解散してるかもしれないし、今がバブルっぽい。バブルっぽいのも、いいと思うの。韓国のアイドルみたいに貪欲にアジアを制覇しにいくのはひとつの賢い戦略だけど、狭い日本でマスを食って、華々しく終わるのだとしたらそれはそれで美しいんじゃないかしら。生き残りたいなら国際化は必須かもしれないけど、そもそも、どのスパンで「生き残る」意味があるのかっていう根本ね。(この意味でPerfumeを見るとすごく興味深い。彼女たちはパフォーマンスはプロだけどどこかいい意味で素人っぽくて余地がある感じ。あのバランス)


女の子たちそれぞれが、デビュー当時とはだいぶ変わってる。かわいくなってる。その感じもすき。数ヶ月前とも明らかに違う!かわいー!って子もたくさんいる。それは、なんだろうね? 見られることを意識して、変わっていくのかなあ。化粧とか現代の技術(Adobe…)とか、そういうことももちろんあると思うよ。でも表情の作り方がどんどん上手になっていくんだ。アイドルとしての自分、を自覚することでそれ「っぽく」なっていくんだよねえ、きっと。で、周りに身近なサンプルがたくさんいるわけでしょう。丁稚だよね、見よう見まねの構図。組織を育てる、後進にいかに自覚を持たせるのかっていう意味でもおもしろいなー。あれだけ人数がいたら「キャラ立ち」しなきゃいけないわけで嫌でもそれも考えるでしょう。他者を考えることは限りなく自分を考えるに等しいですよね。


秋元康がなにかの対談で「僕はいつもメンバーに『君たちはケーキのスポンジなんだ、カメラマンやスタイリストも含めて、プロデュースしてくれるひとの素材になって、ちゃんとデコレーションしてもらうんだ』って言うんです」みたいなことを言っていて、ああなるほどなあって、思った。篠山紀信やら蜷川実花やら清川あさみやら、いろんなひとの「着せ替え人形」に、上手になってるんだよねえ。それはすごくわかるなあ。そうやってひとにものを委ねる姿勢を全面に出すのって、たぶんコンセプトと指針をがちがちに固めることより、勇気あることなんだと思うんだ。柔軟さというか、いい意味で軸をなくしてるというか。カジュアルなファッション誌にも、モードな雑誌にも、青年誌のグラビアにも、週刊誌にも、制服で、流行りの洋服で、水着で、載っちゃうんだよ。「アイドル」の幅がものすごく柔軟になったように思う。


大学の授業で「構造主義」が取り上げられたときに、個性というのは集団のなかでの差異を認識することでしか生まれない、そのためにはまず我々が同じ集団に属しているという意識が必要、という話が出てきた。つまり同じ「文法」「コード」」に則っていることがそもそも個性を発露するための前提条件なんだってこと。そしてその枠の外から見たら個性どころか均質にしか見えないんだってこと。
全然興味ない人から見たら、若い女の人の女性ファッション誌はきっと同じように見える。CanCamとViViの違いなんてよくわからないはず。でも「文法」を知っている人にとってはそれは別物として、自分の嗜好性を反映するひとつの対象になるんだ。もっと違う視点だと、民族衣装だってそう。わたしたちはインドやイスラーム圏の着こなしをよく知らない。なんとなくインドっぽい、イスラームだろう、というレベルで認識は止まる。そこに共通の「コード」がないから。


わたしの女子校時代の友達はAKBすきな子が多いので楽しい。これって女子校ノリなんだろうか?ほぼ確実にAKBの話になる。握手会の写真なんか見てても、女の子のファン(中高生から20代くらいまで)がとっても多い。わたしたちは確実に同世代の女の子として「コード」をある程度理解してる。「○○ちゃんぺろぺろ」的な「すき」とはまったく違う。ファンになるというのは(ともすれば)同一に見える何十人もの女の子たちに個性を与えていく作業なのです。だからどんどんハマっていくし、彼女たち同士の関係性だとかも気になってくる。文法がわかるとまた違う「差異」が見えるから、どんどんそれを追いかけていく。とても構造主義的なのです。関係性の中に発生するアイデンティティなの。人数は必要なの!


そうなると「アイドルっぽい」ってなんでしょうか。
単独で「それっぽい」「それっぽくない」を確かめていったときに、そこに意味は生じるのかしら。そのうえ各個人に与えられる「アイドルっぽくない」は他になにか評価軸があるならば必ずしも悪い方向ではないわけで。しかしAKB48総体としては今の日本の「アイドルっぽさ」のおそらく中心なわけで。彼女たちひとりひとりは確実に「ふつうの子」から「国民的アイドル」にステップアップしていっているわけで。個性(差異)をふりわけることと、見たひとが「アイドルっぽいね」と思う何かがあることは、どのくらい近接するんだろう。そして、その「アイドルっぽいね」という言葉だって、「文法」をどれだけ理解しているかできっと違いますよね。


というわけで、わたしは、増田有華ちゃんがすきです。